最近、本当にふと時に気付いた。
もしかすると、もう僕に恋人は出来ないのかもしれない。
結婚も出来ないのかもしれない。
それは、最近そういう出来事に飢えている自分がいない、という事で分かった。
「もう、僕は諦めているのかもしれない」
言葉にするのが怖かったけれど、
言葉にしたら、本当になってしまうような気がして、気づかないフリをしていた感情だった。
考えてみれば、そうだ。
僕の周りにはもう40になろうかという人や、50になろうかという人で、恋人がいない人が割といる。
僕の旧友が、順調に20代前半までには彼女を作り30までに結婚をしている人ばかりだったので、すっかり忘れていたけれど、
彼らは、恐ろしい程高い倍率を勝ち抜いた勝者達だったんだ。
戦争が無い現代日本という国に生まれ、人格を歪ませるような出来事や家庭環境に置かれる事なく、知能指数が平均的で、そして、理想の伴侶と結ばれた。
それが出来ない人間が最底辺と思われている世の中だけど、僕の周りには、そういう人はごく普通にありふれて存在している。
自分が、どうして勝者になれると、根拠なく考えられていたのかが分からない。
負ける可能性が半分以上ある事を、何故認めなかったのか。
もう最近は、そういう人生になったとしても楽しく生きていく為には何を準備しておくべきか?という事を考えていた。
誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法があるなら、それもアリなのかもしれないけれど、
残念ながら、僕は生に執着すると思う。
僕は表現活動をし続けていく中で、もう取り返しが付かなくなった人生に対して、少しでも「ただ、クソみたいに人生を終わらせなかったよ」と最後に言いたいだけなのかもしれない。
僕が望んだ人生にならなかったとしても、最後に例えばホームレスの収容施設で誰にも看取られる事なく死ぬ事になったとしても、
「でも、俺は残したよ」
と言えれば、もはや上出来なのかもしれない。
覚悟なんてきっと、必要ない。
人間は、幸せになる時も、そうならなかった時も、自分の意思と無関係に結果を受け入れて、
最後に「ばーか」と言って死ぬだけかもな。
やる事はある。幸せにはなれないかもしれないが。
それぐらいかな。