poai’s blog

オナ禁の効力検証ブログ。日頃行っている表現活動(音楽関係)の呟きも載せます。

どこかにいるんだろ

僕のいる表現活動の世界は、悲しいぐらいに弱肉強食だ。


スポーツと違い、自分の人生観や価値観、内面のものを作品にする世界なので、競争よりも「幸せになりたい」という気持ちを持って取り組んでいる人間が多い。

だけど、評価されて、人気を得て残れるのは実力のある人間だ。

誰よりも哀しい過去を持っている人間ではない。

どんなに一生懸命やっていても、どんなに人の体温を求めている表現者も、オーディエンスを魅了出来なければ、お客さんが1人も付かず、そのまま辞めていく。


僕の周りで表現活動から降りていった人達はだいたいが結婚を理由としているけれど、中には、本当に結果が出ずに、親も高齢となり、そのまま実家に戻らなければならなくなって辞めた人間もいる。

彼らは、結果が出せなかったなりにも、表現活動を愛していて、それでも集客、売上という結果を手に入れられず、恋人が待つ家に帰る事も出来ず、何も持たずに地元へと帰っていく。


まだ、愛する人を手に入れていたら、それが救いでもあったのに。彼等は何も持たず始めて、そして、何も得られず、自分の元いた場所に還っていってしまった。


そんな人たちもいる。


俺は彼等の事を思うと、本当に苦しくて寂しくて、何だったんだろうな、という気持ちで、ムカついたり悲しくなったりする。


これが現実だよな。どうして漫画やアニメの世界みたいに、不幸な人間にも最後に手が差し伸べられる事にならないんだろうな。


もちろん、本人達に不幸を作る原因はあるんだとしても、

それでも、この世界に救いはあるべきだと思っている。

だから表現活動の世界に救いがあるのは、そんな彼等の言葉や声を僕は聞くことが出来た事だと思う。


何があっても、彼等の声を忘れたく無い。

幸せを掴みたい、そう願い、力の限り振り絞った彼等の声を。


どうか、どうか、幸せでいてくれ。

表現活動の世界で成し遂げたかった事を達成出来なかった無念。俺は死ぬほど分かる。

本当は、その声と過去と魂で、出会いたかったよな、大切な人達と。


俺もこの世界で生きていく事を選んだ事を、後悔しそうになるけれど。それでも、絶対に後悔しちゃいけないし、そして、絶対にこの勝負に勝たなきゃいけないんだ。


俺は君達の事を片時も忘れない。

幸せな過去を持たず、幸せな未来を信じて、表現活動をやり遂げた君たちを。


その魂ごと俺は持っていく。

絶対に幸せにする。


生きているのなら

性欲が全く収まらない。

本当に「大丈夫なのか?俺は?」と思うぐらい、ずっとだ。

今日はもう既に一回オナニーをしているのに、それでもまだ、おっぱいや裸を求めて、セックスを求めて、ぐちゃぐちゃになっている。

人間にケダモノとして機能をするスイッチがあるなら、もうそれを押してしまったんじゃないか、と思う。強姦や犯罪に手を染めるのを待つばかりなんじゃないかと思う。それぐらいそういう事になっている気がする。

だけど、このままだと、ダメだ。

オナニーをしてしまった事を取り戻すのは無理でも、俺はやる事があるんだ。

それを成さないと、俺は何も残せずに。

俺は君を抱けなかった。だから、やる事があるんだ。あるんだけど、それをやる事が本当の夢だったのかわからない。

まだそれでも

最近、本当にふと時に気付いた。


もしかすると、もう僕に恋人は出来ないのかもしれない。

結婚も出来ないのかもしれない。


それは、最近そういう出来事に飢えている自分がいない、という事で分かった。

「もう、僕は諦めているのかもしれない」

言葉にするのが怖かったけれど、

言葉にしたら、本当になってしまうような気がして、気づかないフリをしていた感情だった。


考えてみれば、そうだ。

僕の周りにはもう40になろうかという人や、50になろうかという人で、恋人がいない人が割といる。


僕の旧友が、順調に20代前半までには彼女を作り30までに結婚をしている人ばかりだったので、すっかり忘れていたけれど、

彼らは、恐ろしい程高い倍率を勝ち抜いた勝者達だったんだ。

戦争が無い現代日本という国に生まれ、人格を歪ませるような出来事や家庭環境に置かれる事なく、知能指数が平均的で、そして、理想の伴侶と結ばれた。


それが出来ない人間が最底辺と思われている世の中だけど、僕の周りには、そういう人はごく普通にありふれて存在している。


自分が、どうして勝者になれると、根拠なく考えられていたのかが分からない。

負ける可能性が半分以上ある事を、何故認めなかったのか。


もう最近は、そういう人生になったとしても楽しく生きていく為には何を準備しておくべきか?という事を考えていた。


誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法があるなら、それもアリなのかもしれないけれど、

残念ながら、僕は生に執着すると思う。


僕は表現活動をし続けていく中で、もう取り返しが付かなくなった人生に対して、少しでも「ただ、クソみたいに人生を終わらせなかったよ」と最後に言いたいだけなのかもしれない。


僕が望んだ人生にならなかったとしても、最後に例えばホームレスの収容施設で誰にも看取られる事なく死ぬ事になったとしても、

「でも、俺は残したよ」

と言えれば、もはや上出来なのかもしれない。

覚悟なんてきっと、必要ない。

人間は、幸せになる時も、そうならなかった時も、自分の意思と無関係に結果を受け入れて、

最後に「ばーか」と言って死ぬだけかもな。


やる事はある。幸せにはなれないかもしれないが。

それぐらいかな。



お楽しみはこれからだ

夢に、昔のお客さんが出てきた。

僕の表現活動の日に、何回か来てくれたお客さんだ。女の子だけど、物好きな事に俺の発表を何回か見に来てくれて嬉しかった。

「明日、あのバンドのワンマンライブ見に行く?」と聞いたら「行かない...」と言って、どこかを見て悲しい顔をしていた。


最近、僕の表向きのSNSは表現活動に関係ない事は告知しなくなっていた。

前まではくだらないことも書いていたけれど、「お前がそれをやっていると気持ち悪い」と言われて、業務以外の事は書かなくなった。


知り合いの同業者が女の子のグラビア写真を見ている写真を発信していて、それを、昨日僕の夢に出てきていた女の子が面白がってリポストしていた。

僕の周りには、下ネタを発信しても女の子に許される男たちばがりだ。


さあ、今日もこのクソみたいな世界に行こう。


黙っていたって、いつかは必ず死ねる。

弱音が吐けるのは墓石の下。

僕の表現活動は、

趣味と「絶対にやらなきゃいけない事」の半々で作られていた事だったんだろうな、と思った。

仕事という意識は、多分無かったのかもしれない。正確に言うなら、僕にとって生きるか死ぬかみたいなものだと考えられる仕事をしてみたいな、という気持ちでは無かったのかもしれない。


なんだか、辛い事がこんなに沢山ある世界でも、表現活動だけは自分に寄り添ってくれている、という気持ちだった。


今、表現活動は僕にとって仕事になった。

やりたくない事という事ではなくて、お金を頂いて、それ以上の価値を渡すもの、という風になった。


何かここに自分の個人的な想いを込めたい、という事で成立はしなくなった。

元々、僕のメンタルが「世の中に必要とされているポジティブさを分かりやすく伝播していく」というものとして、セットはされていなかったからだ。


なので、もう仕事なのである。


「僕は黒い方が好きです」じゃなくて、

「白い方が人が見た時に清潔感を感じるだろう」みたいな。

それが仕事が仕事たる所以だと思う。


僕のメンタルに最も近い思いを書く事が出来るのは、もうこの購読者1人のはてなブログだけど、

それでも、書く事が出来る場所があるだけ、まだ良いな、と思った。

1人が見てくれるんだから。